幕末のエネルギーのかけら 土佐

土佐藩 この地は 藩祖山内一豊(2006年の大河ドラマの主人公だ)が 徳川家康から
関が原の戦いの勲功により 褒美としてもらった。

勲功というのは 一豊が属していた西軍(豊臣方)から 東軍(徳川方)へ寝返ったことによる褒美だという。

徳川家康というのは かなり賢くてしぶとく 思慮深い人物だと思います。

四国の下半分 東から西まで随分長い土佐の国は 二十四万石もあります。
これをもらって一豊は喜びますが もらってからかなり苦労しています。

一豊が土佐を治める前は 長曾我部元親という大名がいたのですが この長曾我部家の侍が 土佐には地侍としてた沢山おりました。

一豊は遠州掛川六万石から入部したが 家臣が足りません。
他所からスカウトしたりしましたが 地元の侍は当初仕官させず 無視しましたが 彼らが反抗するため国が治まらず 仕方なく元の長曾我部侍を 彼らの土地の本領安堵という形で 最低の下級武士として認めることにしたのです。

山内家の侍は上士(上級の侍) 長曾我部侍は下士として 三百年やってきました。

長曾我部侍の多くは 自分たちで土地を耕し自分たちの食い扶持を稼ぐという身分で 半分農民のようなものでした。

当然 藩主山内家には 忠誠心も薄く 彼らの多くは古くから 「天皇がこの国の主だから 自分たちの本当の主は天皇である」と言ってやまないものが多かったといいます。

幕末 土佐藩では十五代当主に山内豊信(とよしげ)号は容堂(こちらのほうが有名)という人が出ました。
山内容堂は 個人的にも徳川幕府に恩が有り 色々な場面で 幕府の味方をし 公武合体の目的の為、外様の立場ながら力を尽くします。

しかし土佐藩にいる下級武士の もと長曾我部侍の子孫たちは 藩主とは反対の行動、
尊皇攘夷から 倒幕運動に走ります。

武市半平太(罪をうけて切腹) 坂本龍馬(脱藩して活躍するも 維新前に死亡) 中岡慎太郎(龍馬と同じ) 吉村寅太郎(檮原郷士 大和吉野の天誅組の変で戦死)など 徳川家打倒 尊皇攘夷で 幕末期活発な活動を行います。

やがて 時代が勤皇運動に傾いてくると 山内家の直臣 乾(板垣)退助や 後藤象二郎までもが 討幕運動に加わるや 容堂の指揮権は効かなくなってしまいました。

山内容堂という人は 自ら「鯨海酔候」(鯨のように酒を浴びるほど飲み酔っ払う殿様の意味)と名乗るほど 気まぐれで破天荒な大名でしたが 時代の波には勝てず 状況は彼を押し流してしまいます。

しかし 徳川家の者や その一門そして家来の多くが 薩長の勢いに押され恐れて その横暴や専横に対して 異を唱えなかったのに較べ 山内容堂は京都二条城で 堂々と徳川家の弁護をし その専横に対し異議を唱えています。

時代は薩長 そして尊皇攘夷。このある意味狂気の熱は 時代を動かし血を欲し ヒステリックに暴れていきます。

土佐藩の勤皇の志士は 脱藩し しかも個人として運動に参加したものが大半でしたが 明治政府ができても 薩長の勢力に対して劣勢になることが多く そのため反薩長の立場から自由民権運動に身を投じるものも多かったのです。

尊皇攘夷の嵐は 長州の場合「攘夷」の方により多くウェイトがかかりましたが 土佐の場合尊王(勤皇?)の方が強かったようです。

今も土佐の人達は 幕末の偉人たちを愛し語り継いでいるようです。
酒の席でも 120年前の人達の話題がよく出ますし 坂本龍馬などは空港の名前になったりするほど愛されています。

ここに面白い話があります。
坂本龍馬は下級武士でしかも 脱藩者ですから 藩主山内容堂は 彼のことを一生知らなかったのですが 大政奉還の建白書を作ったのが龍馬だとも知りませんでした。

大政奉還の建白書は 山内容堂が徳川家を救うため また日本を戦火から救うため 薩長を抑えるため 将軍徳川慶喜に容堂が 土佐藩主として建白しました。

これを容堂に授けたのが土佐藩士後藤象二郎(上士)であり 後藤に教えたのが 坂本龍馬でした。

龍馬は下級武士であるし ましてや脱藩者でもあるので 直接藩主に意見することはできません。

皮肉なことに この大政奉還の建白書の最初の案を出し 考え出したのは幕臣の勝海舟だという説があります。
彼はこの随分前から この大政奉還の話を 他所で話していた記録があるそうです。

勝海舟は 坂本龍馬を可愛がり 海軍操船所で龍馬の面倒をみてやっていますから いわば龍馬の師匠でもあるわけで この話は案外 真実味がありますね。

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